中学から高校そして自衛隊

中学校卒業するまでは実家を継ぐ者

父親と母親の背中を見てたせいか、「中学卒業するまでは実家を継ぐ者」だと思ってました。この時「家業が好きでも嫌いでもない時期」でした。

高校から次の進路を決める時、「本当に自分はこの仕事をしたいのかと自問自答の繰り返し。理由は母親からはずっと「この仕事」を反対されてました。

『あなたにはこの仕事は出来ない』

うちの母親は田舎育ち(北海道浦河)で「美容師」になる為、「中卒で名古屋に上京」腕を磨いたそうです。朝も早く、夜も遅く、休みも無く、「この仕事は好きじゃないと出来ない仕事」「今のあなたには出来ない」とのことでした。

その時に専門学校の入学費や教育費を考えると「途中では絶対に辞められない」と強く思いはじめ、専門学校は「お金さえ貯まれば、ヤル気があれば、いつでも行ける!」「本気で好き」になってからでも遅くないと思い、高校からの専門学校の道を諦めました。

『ガソリンスタンドでアルバイト』

当時、高校3年生まで野球部をしていたので夏の大会が終わったら「ガソリンスタンドでアルバイト」をしました。車も好きだったし、元気よく声を出して接客をするのに少し憧れもありました。

多い時では週7勤務で、オートバックスも掛け持ちしてました。そのまま就職も決めようと思い「危険物の免許」なども勉強してましたが、、、

ある日、家に「自衛隊の広報官」の人がきました。

『自衛隊に入りませんか?』

高校の時に野球をしてたこともあり、体力や気力にはそこそこ自信がありましたが、

「俺には自衛隊は絶対無理だなぁ」

って思ってました。来た方は、高校の時から、就職説明会などで何度かお話をした方でした。

一度学校で断ってたこともあり、、、

「今回も断ろう」

と思っていたら、母親が

「あんた、「休み」もあって「お給料」もしっかりいただいて「定時に始まり」、「定時に終わる」。こんないい仕事なんて他にないんだから、行きなさい」の一言でした。

母親は「自分と同じ苦労を息子にはして欲しくない」と常に思ってたそうです。

昔から親にはとても苦労をかけ、手がかかる子供でした。よく考えた結果、「自衛隊試験を受ける」ことにしました。「受かったら行くと親に約束」をしました。

結果は、「合格」。。。(当時誰でも合格だったのかもしれません笑)約束をしたので、もちろん「行くことを決意」やるだけやってみて、もしダメだったら、また考えよう!と思い、高校を卒業した年の「11月30日札幌真駒内駐屯地に3カ月間の前期教育で入隊」しました。

『今出来ることを全力でやる』『やればできる』

教育中の事については、規則があるので多く語れませんが、「教育の原点」と言われる自衛隊で、「とても濃~~い3ヶ月」を過ごしました笑。。

「自分には向いているのか、向いていないのか、わからなかった」けど、とにかく「今できることを全力でやりました」

その結果、教育隊150名位いる人の中で、「連隊長賞という、栄えある賞をいただくことができました。これが後々の、「自分の変化のきっかけ」になった気がします。

「今できることを全力でやる」「やればできる」

その後、後期教育の3ヶ月も終わり、約半年の自衛隊教育が終わりました。

『上富良野駐屯地』

本配属は「ラベンダーでも有名な上富良野」に決まりました。養豚も盛んで「上富良野ポーク」は絶品です。

上富良野町は養豚が盛んであり、豚サガリ発祥の地と言われている。「かみふらのポーク」は豚にストレスをかけない飼育管理・生産を行い、配合飼料にこだわりを持ったブランド肉である。

-ウィキペディアより-

近くには「美瑛の丘」や「青い池」、「旭山動物園」も近くにあり、とても良い環境でスタートできました。

僕の自衛隊での「主な活動」はと言うと、、、あまり、皆さんが想像してるような??「自衛隊らしい活動ではなく」、配属になった「中隊の名誉」の為に、《各種競技会》があります。

・持続走(マラソン) 、

・銃剣道(剣道に似ていて、木銃での突き合い)

・スキー(かかとが浮くやつ、そして基本、クロカンなのでなまらキツイです。。)

それらの「教育隊」(合宿チームみたいなモンです)に行かせていただいてました。。朝から夜までそれをずーーとやってたこともありました笑。。これがまじ、本気でキッツかったです笑

石の上にも三年…3つの変化…そして

自衛隊入隊してから《3年》が過ぎた頃、自分の中で《3つの変化》が起こりました。

1つ目、『将来の不安』

歳を重ねたときに自衛隊員の自分自身の想像が全くつきませんでした。

 

2つ目、『友人の事故』

「幼なじみの同級生」が「事故で半身不随」になりました。

その子は「看護師」を目指していたが、もう、戻らない身体になってしまいました。

その時に家にお見舞いに行った時のことです。

僕は正直、「なんて声かけていいか」わかりませんでした。どんな顔してあったらいいのかさえもわかりませんでした。

僕は「大変だったね」と声をかけると、彼女は「ううん、全然平気!なぜなら、私は今、こんな体だけど、「目も見えて」「耳も聞こえて」「食べ物も食べれて美味しい」そして、こうやって喋る事もできる。普段の生活が「有難い」と感じることができるから、「今は今で感謝しなきゃ」って思ってる」と言ってました。

これを聞いた時に自分と同い年の幼馴染の子が、昔からずっと「看護師が夢」って言ってて、不慮の事故で、戻らない身体になっているにも関わらず、「生きていることに感謝」をして、「後向き」にならず、「前向き」に、地に足をつけて頑張ってる姿に、とても胸を打たれました。

その時に彼女に誓った言葉は、『日本一の理容師になって、髪を切るよ』と誓いました。

 

3つ目、『父と母の背中を見て育ったことに対する現職の違和感』

正月やお盆に実家に帰ると、

「いつも通り」の父と母の背中を見たときに、

「いつもと一緒」という、なんとも言えない安心感がありました。

当時はお客様にペコペコ頭を下げている親を見て、「なんであんなに頭を下げてありがとう、ありがとうって言っているんだろう」と思ったこともありましたが、今こうして自分が社会人になるまで育ってもらったのは、

「両親がお客様に対して、一つ一つの〈ありがとうの積み重ね〉で今の自分があるんだ」と強く思いました。そして、「人一倍、〈挨拶だけは厳しかった両親〉」でもありました。

むしろ、「それしか厳しくなかったんじゃないか?」と思うくらい、厳しく躾た理由は、

《いずれこの道に入ったときの為》なのと、《挨拶されて気を悪くする人はいない》という、両親の思いの中の、『躾』だったような気がします。

「人から感謝され、《ありがとう》と言って、喜んでいただける《理容師》になる」と決心した時でした。

そして、『今出来ることを全力でやる』『やればできる』

中隊長に、諸々言い伝え、《理容師になる》ことを伝えました。当時の中隊長にこう言われました。

「その道は険しく大変だからやめたほうがいい」と。

「もしそこまでして辞めるなら、「全ての競技会で〈優入賞〉したら辞めてよい」と言われ、《わかりました》と言い、無我夢中で、約1年で全ての競技会で優入賞を果たすことができました。

その時の心境はあまり覚えていませんが優入賞しなくても、辞めさせてもらえたと思います。

大事なのは『これからの進む道に対して、「本気かどうか」』これを確かめるためだったような気がします。

『今できることを全力でやる』『やればできる』

それを胸に、「約4年半の自衛隊生活」に幕を閉じました。

『感謝』

僕には自衛隊時代にお世話になった〈8人〉の「先輩と後輩」がいます。今でもこれからも「ずっと感謝してます」当時は本当にありがとうございました

 

 

生い立ち 理容師
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